義民白田六右衛門

義民白田六右衛門


〔時代背景〕

江戸時代徳川幕府において農民の作る米がその経済の基盤であり、時代を通して年貢米の納入は常々農民の生活をおびやかしていた。
当時の多胡村は旗本の門奈氏、川村氏などが治めており村全体の総石高は約二九〇石であった。
 正保三年(一六四六年)仁叟寺九世 日洲寿朔大和尚を招えて、現在地に龍源寺が改めて開山されたが、この旗本門奈重勝六左衛門が両親菩提供養の為に土地を寄進し開基となっている。
江戸全期を通じて農民の百姓一揆は二,八〇〇余件が記録されているが、主に年貢の減免、代官の交替などの目標を掲げているものが多い。
 土一揆的なものから始まり、やがて村役人層が村民を代表して行なう訴願運動へと展開されていった。
佐倉惣五郎はその典型であるが、寛文七年(一六六七年)黒熊の光真寺に墓所のある堀越三右衛門の直訴が当町ではよく知られている。
 江戸初期から中期にかけて全国的にたび重なる干ばつなどが生じ、各地で百姓一揆が多発し、天明三年(一七八三年)の浅間山の大噴火による天明の飢饉にはその最高に達した。
こうした農民の一揆に対して支配者達はかえって報復的に追徴を行うことがあり、各村々の困窮は全くその極に達していったのである。
 元禄の初め多胡村はすさまじい干ばつの為に農作物はすべて枯死、農民は餓死寸前の最悪の状況となっていった。

〔白田六右衛門殻倉を解放す〕

 白田六右衛門は当村白田一族の先祖であり、白田氏は延宝元年(一六七三年)以前よりこの地に住しており、六右衛門は白田代二代目の当主である。
当町においては延宝二年(一六七四年)に松平信平が吉井藩主になった時である。
 時十余年をへて元禄初めに大干ばつが生じ、当時多胡村地域の名主を務めていた六右衛門は、この悲さんなありさまを目前にして心痛ひとかたならずついに意を決して領主より保管を命ぜられていた年貢米の殻倉を解放し殻倉をすべての人々に分けあたえた。
 この行為により多くの人命が救われたことは言うまでもなく人々からは神仏のごとく尊敬され感謝されたが、この殻倉を許可なく開けることは重大な違法行為であり死罪に相当するものであった。
やがて六右衛門は捕われの身となり、村人達の必死の助命嘆願もむなしく、龍源寺前方のきゅうり畑にて斬首された。
 時に元禄二年(一六八九年)五月四日。口伝によると、わずか二十四才の短かき生涯を終えたのである。

〔戒名及び子孫の供養〕

白田六右衛門が斬首されてより現在に至るまでの長きにわたりその子孫である白田一族は地味ではあるが、末長く供養を続けてきた。
六右衛門がきゅうり畑で斬首されて以来白田一族はきゅうりを作らない習わしとなっている。
又六右衛門の遺徳をしのび先祖祭りと称し、各家もち回りで施主となり、供養を続けてきた時もある。
短い命を終えた場所にワラぶきの「ほこら」をたて命日には草餅や赤飯をそなえて霊をとむらってきた。
昭和二十七年に「ほこら」は石宮に改修された。桑畑の中にあるこの石宮は西方浄土の方を向いて往時の面影を無言のうちに語っている。

(戒名)

一刀利切禅定門  後になり 寂室相空居士 この戒名は諸般の事情により当初につけた戒名を後になり、新たにつけ変えたものであり、現在も寺に残る江戸時代の過去帳に和紙をはって戒名を改めたあとが今でも確認される。

(墓石)

龍源寺境内の白田智志家の墓所にあり、多胡石でできた高さ四十cmほどの質素な墓石で時を経てひっそりとたたずんでいる。
正面  寂室相空居士    一庭妙槃大姉左側面 白田家大先祖    元禄二已年五月四日右側面 貞享五辰年四月四日
過去帳によると、寂室相空居士は白田六右衛門であり、一庭妙槃大姉はその母親であり、一年前に死亡している。

(位牌)

 位牌は白田博家の仏壇の中に安置されており、白木の板位牌に記してある。
表 寂室相空居士  一庭妙槃大姉裏 元禄二年己五月初四日  貞享五年辰四月初四日

〔雑感(あとがき)〕

 白田六右衛門を調べていく過程で恵まれすぎるほどの物質文化の中で暮らす私達にとって遠い先祖達のきびしく、つらい生活環境を必死で生きぬいてきたことを考えるとき、私達の生き方を問われているような気さえしてきた。
 白田六右衛門は時代の大きな流れのなかで、歴史の片隅へと消えていったかも知れないし、あるいはそれも、やむを得ないことかも知れない。
 しかし、白田一族の先祖に対する誇りと尊敬の念は絶えることなく脈々と受け継がれてきた。
それは白田一族にとって精神支柱でもあったと言っても過言ではないであろう。
 「己を捨てて、他を生かす」言葉では簡単であるが、約300年前にこの地で白田六右衛門のこの生き方があったことを知り、単に白田一族の問題だけでは決してなく郷土を愛し、人を信じて生きていく人間としての姿は時代がいかに変ろうと学んでいかねばならないと確信するものであります。
義に厚き多胡村の人々により六右衛門の遺徳をしのび顕彰する試みは様々な形で行なわれてきたわけであるが、今回できる限り資料に忠実に事実関係をまとめたつもりである。
何分とも手段、方法などまとまらぬ点はお許し願い多くの人々の批評をいただきたいと思います。
― 参考資料 ―
龍源寺過去帳 仁叟寺過去帳
群馬県多胡郡多胡村墓図 群馬県多胡郡多胡村墓籍
吉井町史(吉井町教育委員長) 日本史辞典(角川書店)
凩の駆ける道(田中浩著)

☆義民白田六右衛門は「村おこし運動」の一環として区長出牛力太郎氏の求めに応じて記す。
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